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実写版『アラジン』のジャスミンがどうしても好きになれない

 今年の6月に、実写版『アラジン』の日本公開がスタートしました。今年の夏は私事でばたついていて、映画を観るだけ観に行ったあと、世の中の評判についてはあまりきちんと追えていなかったのですが、もうそろそろネタバレも許される頃合いになったかな、と思うので言います。

 どうしてもジャスミンが好きになれない。鼻につく。

 理由はかなりはっきりしていて、要は「ここ最近のディズニー映画の『おもねり』が凝縮されているから」というお話なのですが、もう少しだけ詳しく説明させてください。別にジャスミンというキャラクターは何も悪くないんだ。

※当記事には当たり前のように実写版『アラジン』のネタバレがバンバン出てきますので、まだご覧になっていない方はご注意ください。リメイクされた名曲の数々がとってもかっこいい映画なので、是非劇場で観てね。

 実写版『アラジン』におけるジャスミン

 本作におけるジャスミンには、いわば原作であるアニメ映画版ジャスミンとは異なる点がいくつか存在します。もちろん他のキャラクターたちも実写化にあたって設定の変更やキャラクター像の掘り下げ、新解釈等が行われているのですが、ジャスミンのそれは物語のラストに特に大きな影響を及ぼしています。

 ジャスミンアニメ版からしてそもそも行動的なキャラクターです。「自分の誕生日までに結婚しなければならない」ことが嫌で嫌で遂に王宮を抜け出してしまうくらいで、アラジンと結ばれたあとのスピンオフアニメではお忍び街歩き常習犯になっています(まあ、スピンオフアニメはそうでもしないと話のネタが尽きてくるという事情も多分に絡んでくるとは思いますが……)

 実写版ジャスミンにおいてもその行動力は健在。アラジンとの出会いのきっかけになる家出も、大事件として扱われていたアニメ版と違い冒頭からあっさりとこなしてしまいます。が、ここでの動機はあくまで「自分の目で城下町を見たかった」というもの。アニメ版と同じく数多の求婚者を退けている描写はあるものの、結婚までの期限には言及されていません。

 ここでキーになるのが「自分の目で街を見たい」というこの発言。実写版ジャスミンは己の中に「理想の為政者像」を有しており、それが「国民に寄り添うこと」であるとのちに明かされます。

 悪役ジャファーが企てたクーデターに際し、実写版ジャスミンは持ち前の勇気と国民たちへの強い思いで国王サルタンの危機を救います。

 全ての事件が解決したのち、サルタンは娘ジャスミンの行動を讃え、そして「王位をお前に譲る」と語るのです。

 そう。実写版ジャスミンは自ら王になることでアラジンと結ばれます

 アニメ版におけるサルタンの対応は、あくまでアラジンに感謝し「『王子でなければ王女とは結婚できない』という法律を変える」というものでした。その後の2人については詳しく明かされていませんが、おそらく順当にいけばサルタンの死後はアラジンが王位に就くのでしょう。

 対する実写版ジャスミンは、自らが王として政治を執り行い、自分で法律を変えることによってアラジンとの婚姻も可能にしてしまいます。「法律を変えてアラジンと結婚できるようにする」という結論は一緒ですが、そこに至るまでのルートに大きな違いがあるわけです。

本当にお前は王になりたかったのか?

 今までの古い風習と決別し、自分の娘に王位を譲ることを決めたサルタンの英断は称賛されるべきだと思います。まあ、仮にアラジンが王になったところで政治とかできるわけありませんからね。

 ただし、ここでひとつ疑問が浮かび上がります。それは、ジャスミンが本当に王になることを望んでいたのかという問題です。

「いや、王位譲られてハッピーエンドなんだから望んでたに決まってるじゃん」という反論はご尤もなのですが、それにしてはジャスミン自身の「王になりたい」「自分が政治を執り行いたい」という描写が作中ではかなり希薄なんです。

 政治に関する信念についても、上述した「民と共にありたい」というそれだけで、為政者として強い信条を持っているようには見えません。

 今回『アラジン』が実写でリメイクされるにあたって新しく追加された『スピーチレス〜心の声』というジャスミンのソロ曲があるのですが、この曲からも「自分が王国を牽引していく存在になりたい」という願いやメッセージは読み取れませんでした。

 あと、この歌詞もやや鼻につくポイントを加速させています(理由は後述)。

『スピーチレス〜心の声』で歌われているのは「今までは黙っていることが賢いと教えられてきたけれど、もう誰も私を止めることはできない。今こそ声を上げて自由になるのだ」という内容。王女という枷から自由になりたいという意味にも、はたまた別の意味合いにも取れます。

 また、劇中で悪役ジャファーに「お前はどうせ飾りなんだから美しければそれでいいんだ。余計なことは言わずに黙っていろ」と脅されるシーンはあるものの、ジャスミンが為政に興味があり、積極的に自らの父の政治に介入しようとしていることを示すシーンはほぼありません。ジャファーの暴走を見咎め、その進言に心を動かされそうになっている父を諌めるのが精々です。

 これが例えば「小さな頃から『女のお前には必要ない』と言われながらも政治の勉強をしてきた」「今では臣下を差し置いて父サルタンに助言をしようとすることもある」くらいの描写が少しでも入っていれば、話は違ったのでしょうが。

 乱暴な言い方をしてしまうと、実写版ジャスミンには国王になりたいという強い意志も、その能力もないまま、唐突に王の座を明け渡されたように見えてしまうのです。

なぜジャスミンは王にならなければいけなかったのか

 もちろん、実写版ジャスミンは実在の人間ではなく、あくまで映画『アラジン』のいちキャラクターです。ですから、ジャスミンに「王になる覚悟もないまま即位しやがってこいつ〜!」という怒りを抱くのは完全なるお門違いです。

 ここで議論されるべきは、「では作品世界の神である製作者は、一体なぜジャスミン為政者としての適正に関する描写不足のまま即位させてしまったのか」という点でしょう。

 もちろん、これが意図的なものだとは思いません。『アラジン』という映画は、ジャスミンが王になることを肯定的に描いています。ということは、少なくとも制作陣の中には「ジャスミンは王になりたがっていて、その資質がある」という設定は存在しているはずです。もっと言えば、意図があってわざわざ付け加えた設定のはずです。にも関わらず、その掘り下げがあまりにも浅く、甘い。

 ここへきて、ジャスミンというキャラクターが「王にするためだけに祭り上げられた」「お仕着せの『強い女性』」にしか見えなくなってしまったのです。

ディズニーの「女性解放」ブーム

 近年、ディズニーは作品の方向性を大きく転換しました。少し前からその兆候はありましたが、そのメッセージ性が広く知られるようになったのは、やはり『アナと雪の女王』でしょうか。

 差別意識への強烈な自己批判を放った『ズートピア』やディズニー版マッドマックスと囁かれた『モアナと伝説の海』。極めつけは実写版『美女と野獣』にエマ・ワトソンを起用し、主人公ベルを聡明で強い女性として描いたことでしょう。

 今回の実写版『アラジン』におけるジャスミンが、これらの系譜を引き継いで作られたキャラクターであることは明らかです。

アナと雪の女王』では、己の持つ能力に怯え、ひた隠しにしてきたエルサが、家族愛という「真実の愛」によって自身を肯定する過程が描かれました。そこには今までのディズニーが放ってきた「女の子の幸せは自分を愛してくれる運命の人に出会って結ばれること」というステロタイプへの自己批判があります。

 大ヒット曲『Let It Go』は、自分を解放し、自立して生きることを望む全てのマイノリティたちへの力強い応援歌となりました。

 前述したジャスミンのソロ曲『スピーチレス〜心の声』も、歌詞だけ見ると大体同じようなことを言っています。メッセージ性は『Let It Go』より更に強いくらいかもしれません。

 だからこそ、それが鼻につく。

 エルサは良いんです。だって、『アナと雪の女王』はエルサが自分を解放する物語であり、彼女には「自分の力を抑圧してきた」「そこから自由になりたい」という葛藤があったのですから。悩みに悩んだ末にブチギレて山で城建てながら歌うのだから、かなりの説得力があります。

 一方の『アラジン』は、あくまで「主人公アラジンが魔法のランプを手に入れ、なんやかんやして王女ジャスミンと結ばれる物語」であり、前述のように、ジャスミンの葛藤を示す作中描写はほとんどありません。

 つまるところ、意地悪な言い方をすると「『Let It Go』がウケたし、ジャスミンにもとりあえず同じような歌を歌わせとけ」という意図で制作されたようにしか見えないわけです。

 お仕着せの即位、『Let It Go』のセルフパクリみたいな新曲、粗雑なキャラクター設定。これらを総合したとき、私の目にはどうしても、ジャスミンが魅力的ないちキャラクターとしてではなく、ディズニーの「女性解放ブーム」のための舞台装置にしか映らなくなってしまいました。

「結婚して幸せになりたい」は悪なのか?

 私は『アナと雪の女王』が好きです。『モアナと伝説の海』はもっと好きです。『ズートピア』に至っては劇場に6回くらい足を運びました。そして、それら全ての映画に出てきた「強い女性」像を絶賛してきました。

 要は、ディズニーの「女性解放ブーム」に加担していた側です。

 映画は商売ですから、常に「ウケる」ものを作らなければなりません。そういう意味では、エルサやモアナやジュディを手放しで称賛してきたいち消費者の私にも、ジャスミンを舞台装置にしてしまった非があります。

 けれど、今一度強く主張しておきたいのは「自分を幸せにしてくれる王子様をひたすらに待ち望む」ことだって、尊重されるべきひとつの価値観だということです。

 別に、ジャスミンが真実の愛に目覚めて「今まで結婚とか嫌だったけど、この人とだったらしてもいいな」と思えるだけの話でも良かったと思うんです。

 為政者としてのジャスミン像を作り込めないまま、ポッと出の「Let It Goもどき」を歌わせるくらいなら、彼女は「旧型のディズニープリンセス」のままでも良かったのではないでしょうか。そもそも、原型のアニメ版からして、いわゆる「ディズニープリンセス」の中ではかなりアクティブな方だったのですから。

トークンバニー」は誰?

 そういうわけで、私は実写版『アラジン』におけるジャスミンを悲劇のヒロインとして認識しています。彼女を無理やり王にしてしまったのは、ディズニー制作陣の都合であり、彼らの「女性解放」の系譜を大絶賛してきた我々です。

 私の大好きな『ズートピア』に、こんなセリフがあります。

「私はどこかのトークンバニーじゃないのよ」

 主人公であるジュディが「うさぎ初めての警察官」として配属された先で自身の扱いに不満を覚え、上司に向かって発したものです。

 これは「トークンマイノリティ」という言葉のもじりで、要は「『差別的だ』という批判を退けるため、お飾りで物語や組織に含められている人」を指します。

 たとえばアメリカが舞台の映画なのに白人しか登場しない場合、「差別している!」という誹りを受けるのをまぬがれるため、とりあえず黒人や東洋人をちょろっと出しとくか……という意図で投入される、特に意味のない役がそれです。

 ジュディはそうした「トークンマイノリティ」を指して「自分は『うさぎにも差別してませんよ!』と主張するために配属されたお飾りの警官ではないのだから、きちんとした仕事をくれ」と言っているわけです。

 この一言、実写版『アラジン』においては完全にブーメランです。もともとがディズニーの自己批判の塊のような『ズートピア』ですが、それが一周回って未来の自社に突き刺さることになるとは、多分誰も思わなかったことでしょう。

 少し前に『トイ・ストーリー4』でも似たような話題が議論されていました。ヒロインとなるボー・ピープというキャラクターの、前作以前からの大きな改変です。性格も見た目も大幅に変更されたことは、以前のボー・ピープを愛していたファンからの批判を呼びました。

 きっと、この後もディズニーは沢山の「逞しい女性」を世に放つでしょう。それ自体は素晴らしいことだと思います。私は相変わらずジュディが好きですし、『アナと雪の女王2』が公開されたら初日に観に行きます。

 けれど、作中に登場する全ての女性を強くて賢くて独立精神旺盛なキャラクターに塗り替えてしまう前に、いまいちど、その必要性が本当にあるかどうか、誰か考えてくれたら良いなあ、と願ってやみません。

 彼女たちはみな作品世界の中では生きた存在であり、誰ひとりとして「トークンバニー」であってはならないのですから。