まだ恋愛で消耗してるの?

世界の隅っこ気味のAセクのブログです

「お気持ち」についてのお気持ち、或いは納豆をめぐる2つの立場について

 Twitter上でフェミニズムに関わる議論がなされている時、しばしば目にする「お気持ち」という単語があります。これは大抵、フェミニスト(厳密な定義はさておき)を皮肉り揶揄する為に使われます。

 いつ誰が考えた単語なのかはわかりませんが、「お気持ち」は、いつの間にか、ジェンダーに纏わる話題の場で必ずと言ってよいほど登場する、いわばレギュラー枠のような存在になってしまいました。

 私自身、この「お気持ち」という単語についてあまり深く考えたことがなかったのですが、とあるツイートを目にして、以下のような疑問を覚えたので、少しだけ考えてみたいと思います。

  1. そもそも、一体なぜ「お気持ち」という単語が使われるのだろうか
  2. お気持ち上等」を掲げることは「お気持ち」論へのカウンターとして有効なのだろうか

 疑問を抱く発端になったのは、以下のツイートです。

 これが何かというと、#KuTooという、女性のパンプスからの解放運動についての本が出版されるにあたって巻き起こった、表紙の写真についての議論に対する出版社からの回答ツイートです。

 表紙の写真の是非や#KuTooそれ自体については、既に様々な方が言葉を尽くして語っているので、今更ここであれこれと論じるまでもありません。今回考えるのは、あくまで「お気持ち」という揶揄と、それに対する「お気持ち上等」というカウンターについてです。

 また、先に言っておくと、この記事にすっきりとした結論はありません。あくまで「お気持ち」という単語をひとりで捏ね繰り回したメモ書き、へりくだって言うところの「『お気持ち』についてのお気持ち」ですので、先を読まれる場合は時間をドブに捨てる覚悟を決めてください。納豆云々が何かを指すかは、読み進めればわかります

「お気持ち」は、なぜフェミニズムに対する批判として成立するのか

 実際に「お気持ち」という単語が批判として成立しているかどうかは置いておいて、この言葉がある程度の市民権を獲得している以上、そこには少なくとも「成立する」と考えている人が一定数以上存在することは間違いありません。

 彼らにとっては「お気持ち」はフェミニズムの矛盾を抉る単純にして痛快な単語であり、少なくとも「フェミニストのバーカ!」と叫ぶよりは「フェミニストのお気持ち野郎!」と言ったほうがフェミニストを論理的に批判できると思っていることは明らかです。

 では「お気持ち」とはそもそも何なのでしょうか。バカ丁寧に噛み砕いていきますが、これはそもそも「気持ち」という単語に接頭辞「」をつけ丁寧にした美化語で、もちろんこれは皮肉です。ニュアンスとしては、あまりにも尊大な態度ばかりとっている相手を揶揄して「先生」とか「誰それ御大」と呼ぶのと同じでしょう。

 つまるところ、この皮肉が意味するところは「実際にはそこまでの価値がないにも関わらず、御大層な何かがそこにあるかのように振る舞っている」という批判になります。

 では、修飾されている側、即ち「実際にはそこまでの価値がない」と断じられている「気持ち」とはなんでしょうか。辞書を引くと、以下のように解説されています。

  1. 物事に接したときに心にいだく感情や考え方。「気持ちのこもった贈り物」「お気持ちはよくわかります」
  2. ある物事に接したときに生じる心の状態。気分。感じ。「気持ちのよい朝」「気持ちの悪い虫」
  3. 物事に対しての心の持ち方。心がまえ。「気持ちを新たにする」「気持ちを引きしめてかかる」
  4. からだの状態から生じる快・不快の感じ。気分。「気持ちが悪く吐き気がする」
  5. 相手に対する感謝の心や慶弔の意などを表す語。ふつう謙遜していうときに用いる。「ほんの気持ちですが」「気持ちばかりの品を送ります」
  6. (副詞的に用いて)ほんのわずか。「気持ち長めに切る」 

※デジタル大辞林より引用

  当然、真っ先に出てくるのは1番の意味合いです。これは大抵、「考え」もしくは「感情」のどちらかの単語に置き換えることができます。

 たとえば、転職エージェントがこれから転職を考えている人に対して「転職について、今のあなたの気持ちを教えて下さい」と問いかけるときに使われる「気持ち」は「考え」に置き換えることができます。

 転職エージェントが聞きたいのは、「転職時期はいつくらいを考えているのか」「どんな職に就きたいのか」といった、YES or NOでは答えられない質問、つまり「あなたが今、転職について考えていること」です。

 一方、身内に不幸があった相手にかける「お気持ちお察しします」という言葉が指すのは「あなたが今抱えている感情は想像に難くありません」というメッセージです。

 そうして、この「感情」が、更に単純化されて「快・不快」になると、「気持ち」は大辞林が示すところの2番の意味合い、すなわち「よい・悪い」の二択から選べるものとして扱われます。

「気持ち」の精度はピンキリである

 そういうわけで、ひとくちに「気持ち」と言っても、「考え」から「快・不快のどちらか」まで、そこにはかなりのニュアンスの違いが存在します。

 このうち、おそらく「お気持ち」における「気持ち」が指すのは「感情」〜「快・不快のどちらか」の範囲でしょう。

 なぜなら「考え」もまた「お気持ち」に含めてしまうと、それは「お前の考え(≒主義主張)には価値がない」と根拠もなく断言しているだけになってしまい、それは要するにフェミニストのバーカ!」と叫んでいるのとほとんど変わらなくなってしまうからです。「お気持ち」という言葉はあくまで冷静で論理的な立場からフェミニズムを痛烈に皮肉るための道具のはずですから、それでは面目が立ちません。

 なので、ここからは「気持ち」とは「主に快・不快の二択に分類できる感情のことである」という前提で話を進めたいと思います。

 要するに「お気持ち野郎め!」と誰かが舌打ちするとき、それは「お前は、実際には論じられる価値もない『快・不快などの感情』を、さも論じるべき価値があるかのように喧伝しているムカつくやつだ」という意味になります。

「快・不快」という判断基準に価値はないのか

 随分と回り道をしてしまったような気がしますが、ようやくこの議題まで辿り着けました。すなわち「社会の中で生きる一個人が『不快』であることは、社会にその原因を取り除くことを要求する正当な理由になるのか、否か」という議題です。

 当然、「お気持ち」という単語を皮肉として使う側の答えは「」でしょう。理由はおそらく、こんなところだと思います(思います、という他人行儀な言い方をせざるを得ないのは、私がどちらかというといわゆる「フェミ」側の人間だからです)。

  • 「快・不快」はごく個人的な体験であり、普遍的なものではない
  • 一部の人々の「快・不快」は、お互いに対立するため、すべての「不快」を消し去ることは物理的に不可能だ
  • 故に、個人の「快・不快」を理由にして、社会に仕組みの改変を迫ることはできない

 この主張をもう少し噛み砕くために、たとえ話をさせてください。

 私は納豆が嫌いです。それはもう蛇蝎の如く、友人たちに「納豆に親でも殺されたのか」と問われるレベルで嫌っています。見た目も匂いも食感もだめです。あんな腐り果てた豆を喜んで食べている人間はみんな味覚の一部に重篤な障碍があるので日常生活に支障が出る前に病院に行くべきだと思っています。ですから、当然断りもなく目の前で納豆のパックを開けてねりねりしはじめる不届き者が現れたら、キレます

 しかしながら、これは私の「納豆が嫌い、匂いが漂ってくるのも嫌だ」という、ごく個人的な感情です。似たような感情を抱いている人は他にも存在するでしょうが、少なくともマジョリティではありません。旅館で朝ごはんを食べるときなど、老若男女が喜んで腐った豆を箸で突き回しているのを見ると、絶望と共にそれを痛感します。

では、お前はこの世から納豆を根絶しろというのか?

 というのが「お気持ち」論者の問いかけです。

 ごく個人的には、「そうだよ! 今すぐ根絶やしにしろ!!」と答えたいところですが、もちろんそんなことが不可能なのは分かっています。なので、こう答えましょう。

「それは無理かもしれないけれど、せめて、においの届かないところで食べてほしい」

 この主張には、当然こんな反論があります。

「旅館の部屋数だって無限じゃないんだ。なのに、お前が『納豆が嫌いだから』というだけの理由で、おまえのためにわざわざ別室を用意しろというのか」

「納豆が嫌いなのはお前の勝手なのだから、どうしても嫌なら朝食の席に来なければいい」

 たとえ話の題材に納豆を選んでしまったおかげでくだらない言い争いに見えかねませんが、実際、たとえばR指定の雑誌をめぐるゾーニングの話などは、彼らにとっては納豆をエロ本に言い換えただけの話に見えていたと思います。

(と書くと、まるでゾーニングの推進に異を唱えるように聞こえるかもしれませんが、私は推進派です。あくまで今回は、一旦はどちらの立場にも立場なりの正当性があるという観点から対等に比較するため、そして私自身、件に関しては「好き嫌い」とは別の観点から推進派の立場を取っているため、敢えてここで議論を切り上げています。少なくとも、私の周囲に存在する性犯罪被害者の数は、納豆がわりに箸を突き立てられたことのある人の数よりもずっと多いです。)

 では、「お気持ち上等」派の主張についても検討してみましょう。

  • マジョリティではないからといって、誰かが不当に不快な思いを強いられ続けるのは人権の侵害である
  • すべての「不快」を消し去ることは不可能かもしれないが、限りなくそれに近づけようと努力し続けることはできる
  • 故に、誰かひとりでも「不快だ」と感じる人間がいるのならば、それは社会への要求として声を上げる理由としては充分だ

 ここで重要なのは「不当に」という点で、たとえば私は厚底の靴を履いている時によく点字ブロックを踏んで転びかけますが、これを以て「点字ブロックを撤去しろ」と主張するわけにはいきません。なぜなら、道から点字ブロックを撤去することによって、私が道の好きなところを勝手気ままに歩いて足をくじくことよりも遥かに不便と苦痛を強いられる人々が存在するからです。

 さて、話を納豆に戻します。戻すなよ、と思われそうですが、戻します。

 この納豆という呪わしき食品は、なんと給食にも登場します。密閉された空間で30個近くの納豆が開封されるさまは、まさしく地獄絵図です。

 そして、更に恐ろしいことに、学校には時折「好き嫌いによる食べ残しは絶対に許さない」という教師が存在します。この強制がどれだけ無意味で有害かは別に記事が1本書けるレベルですので割愛しますが、こういう教師が存在し、かつブチギレて教師の顔面に納豆をぶちまけるという選択肢が取れなかった場合、私には「我慢して納豆を食べる(そして確実に吐き戻す)か、納豆が給食に出る日は学校を休む」かの二択しかありません。

 私は、自分が納豆を食べれば確実に吐き戻してしまうことを知っています。つまり、一時的であれ、健康に害があるレベルの支障をきたすわけです。

 言うまでもなく、小中学校は義務教育です。私の保護者は私を学校に通わせる義務があり、そして私には学校教育を受ける権利があります。つまり、「納豆を食べるか、学校を休むか」という二択は「健康に害が及びながらもそれを我慢するか、涙を呑んで学ぶ権利を手放すか」という二択なのです。

 そんな大げさな、と思うかもしれませんが、#KuTooの活動が言及しているのは、まさしくこれと同じ問題です。

 我々には職業選択の自由が存在します。にも関わらず、ある特定の職業は、女性にパンプスを履いて従事することを強要しています。 これはまさしく「健康を害するか、それが嫌なら人権を諦めろ」という二択に他なりません。

 また、統計をとったわけではありませんが、高いヒールの靴を履くことによって苦痛を感じることは、納豆を食べて胃が裏返るまで吐くことより遥かに普遍的な現象である、ということも付け加えておきたいと思います。

Q.旅館と給食じゃ、話が全然別じゃない?

 ここまでの記事を読みながら、こんなツッコミを入れていた方も多いでしょう。結論からいえば、仰る通り、確かに全然違います。でも、どちらも同時に、間違いなく日本で起こっていることです。

 基本的に、人は自分の想像力の及ばない世界については、エジソンの言うところの90%の努力と10%のひらめきでしか理解することができません。

 つまり、「お気持ち」論者にとってはフェミニズムとは「納豆が嫌いだから自分には特別に朝食用の部屋を別に用意しろ」と旅館に迫る行為だし、フェミニストにとっては、今の女性が晒されている現状は、「嘔吐しながら給食を食べるか、それとも学校を休むか」の二択である。そしてそれらは同時にこの日本で唱えられている主張である、ということです。

 そして、客観的に見てどうこうはともあれ、少なくとも両者の中では、共に自らの主張は「正論」なわけです。

納豆とはなにか

 要するに、片方が「お気持ちwwww」と揶揄して、もう片方が「お気持ち上等」と答えるとき、両者の世界観、あるいは論点は致命的にずれてしまっているのです。かたや旅館の朝ごはんに出る納豆の話で、かたや給食で無理矢理食べさせられる納豆の話をしているのですから。

 フェミニストにしろ「お気持ち」論者にしろ、世界をよりよくしたいと考える、それ自体は同じはずです。ですから、「お気持ち」だの「上等」だのと言う前に、まず我々のすべきことは「今ここで論じられている納豆とは何で、ロケーションはどこなのか」を徹底的にすり合わせることなのではないでしょうか。

 ……と言うと、双方から「もちろん最初はそうしたよ。でも奴ら、まるで聞く耳を持たないから多少乱暴に言うしかないんだよ」という反論が飛んできそうです。というか、実際そういう言論は両陣営から耳にします。だからこそ、敢えてこうお返ししましょう。

懇切丁寧な会話による相互理解を諦めたときが、人類の進歩の終わりだよ! バーカ!! 私もまずはひきわり納豆から始めるから、みんないっしょに頑張ろう!!!

 以上です。ありがとうございました。

Aセクが主人公の官能小説は「アリ」なのか

 昨日、こんなツイートを発見しました。

 最初に読んだときは一体何のことだろう、と思ったのですが、調べてみると、どうやらそういった小説が近々雑誌に掲載されると著者本人がツイートしたことにより、Aセクシュアル当事者の間で話題になっていたようです。

 発端と思われる作品紹介のツイートはこちら。

 この記事を書いている今、先に引用したツイートのアンケート結果は未だ出ていませんが、今のところは「不快に思う」派が優勢の様子(2019/10/1現在 得票数403票時点)。

 この「Aセクシュアルが主人公の官能小説」問題について、個人的に少し思うところがあったので筆を執ります。

※その後、著者自身のコメントで「官能小説」ではなく「官能括りの小説」であると説明がなされていますが、正直個人的にはどちらであろうと論じるには大差ないので、発端となったツイートで使われている「官能小説」という単語を使っています

Aセクの官能小説は「アリ」か?

 結論から言ってしまうと、上記の問いかけに対して、私は「アリだ」という立場をとっています。理由は以下です。

  • Aセクシュアルが性産業に従事している、という小説内の設定は、現実にも存在しうる
  • そもそもある作品の設定について、それだけを引き抜いて「アリか、ナシか」という問いかけはナンセンスである

 前者の理由についてはわざわざ論じるまでもないでしょう。Aセクシュアルと性嫌悪は別物ですから、当事者が性産業に従事するのは充分あり得る話です。ので「性産業従事者のAセクが主人公の作品である」という点は批判の対象にはなりません(それがたとえ「官能小説」だったとしても)。

 後者の理由については大いに賛否が分かれるところだと思いますが、少なくとも私は、文芸という表現の場ではどのような舞台・キャラクター設定も、設定だけなら許されると思っています。

 但し、小説はその性質上、物語と切り離すことはできません。主人公がAセクである必要性が全く感じられないとか、キャラクターの設定が雑過ぎて行動原理が理解できないとか、そういう場合は確かに批判されても仕方ありませんが、それはあくまで作品批評としての観点からの話です。

 また、蓋を開けてみて主人公の言動に非当事者からの誤解を招くような描写があれば、その時には今度こそ、ポリティカル・コネクトレスの俎上に載せられることになるでしょう。

 少なくとも、今わかっている「主人公はMtFAセクシュアルで、性産業に従事している」という設定それだけでは、批判の対象にはなり得ないと思います。

 だからといって、今回の件に一切の問題が無いわけではありません。作品の名称を取ってざっくりと「『浅草』騒動」と呼んでしまいますが、この騒動についての論点は、作品にAセクシュアルMtFが出てくることそれ自体ではなく、もっと別のところにあります。

『浅草』騒動は、何が原因か

 実際、Twitterで『浅草』について言及している当事者のほとんどは、登場人物の設定それ自体ではなく、それを紹介する著者のツイートの方に苦言を呈しています。設定を見て「おや…?」と思った当事者が呟いた、それに対する著者の反応がまずかったわけです。

 該当するツイートは、2019/10/1現在では以下です。

※個人宛のリプライは省いています

 これら一連のツイートから、以下のことが推測されます。

  • 著者は性的マイノリティに興味・関心を抱いており、たびたび自作の題材にしている
  • 著者はAセクシュアルと性嫌悪を混同している
  • 著者はトランスジェンダーの多くは自分とは異なる性別に「憧れ」を抱いているものだと考えている
  • 著者はトランスジェンダーの多くは性適合手術を行っていると考えている
  • 著者は性自認という単語の存在を知らない

 上2つは説明する必要もありませんが、下3つについては「何故?」と思われる方もいるかもしれませんので補足しておきます。

 一般に「この登場人物はAであるがBだ」と言った場合、それはAという属性の中ではBであることは珍しい、といった文脈になります。

たとえば「私は日本人であるが寿司が嫌いだ」といった文章がそうです。本当に日本人の大多数が寿司好きなのかは関係ありません。〜だが、という接続詞を使った時点で、少なくとも話者の中では「AでありながらBであることは珍しい」という前提が存在することになります。

 更に、著者は主人公について「憧れたのではなく」「心を病んで手術した」と言及しています。しかも心を病んだ理由は周囲から本来の性とは異なる性別として扱われることではなく、恋愛圧力や結婚圧力としています。これらの圧力によるストレスと、性自認は無関係です。にも関わらず、その2つを因果関係として直線で結んでいる。以上のことから、著者は「性自認」という概念を知らず、トランスジェンダーが性適合手術に踏み切る理由は「異性への憧れ」もしくは「心を病んだから」のどちらかだと考えている可能性が高いと推測されます。

 これは正直、トランスジェンダーの当事者は怒っていいと思います。

Q.重箱の隅、つつき過ぎじゃね?

 そんなの言葉の端っこ捕まえて揚げ足取ってるだけじゃん、と思われる方もいるかもしれませんが、忘れないでください。この方は小説家です。使う言葉の精度は常人のそれ以上でしょう(と、本人の為に信じておきます)。

 にも関わらずこのような杜撰な説明をしているということは、それは氏の認識そのものが杜撰だからに他ならないはずです。

 もっと言えば「言葉が杜撰だっただけで認識はちゃんとしてます!」などと宣言することは、翻って己の文章能力の低さを喧伝してしまうことになりかねないので、今後の対応としてはおすすめできません。

 今のところ、Aセクシュアル当事者から寄せられた声については「私はマイノリティをテーマとして扱っている(≒うるせー! 私は詳しいんだ!)」という、やや高圧的ともとれる言葉を以って返答としていますが、氏の発言を見る限り、メインテーマとして扱うなら、もう少し勉強した方が良いんじゃない? という感想を抱かずにはいられません。

 ……とはいえ、氏は決して適当な気持ちでAセクシュアルという題材に手を伸ばしたのではないと思います。当事者たちが絶えずぶつかり続けている「0の証明」に言及しており、また執筆にあたってAセクシュアルについて専門的に解説された本に当たっていることを匂わせていることからも、それが伺えます(ま、慌ててアピールしているのかもしれませんが)。

 少なくとも、別にAセクシュアルを「面白そうなネタだ、しめしめ使ってやろう」という心持ちで見ているわけではないと思います。たぶん。

 ので、我々当事者及び有識者のすべきことは、「Aセクシュアルが官能小説に登場すること」を否定することでも、著者の理解不足を糾弾するのでもなく、あくまでいち読者の立場として「ファンレター」くらいの軽さで間違いを指摘してあげることだと思います。

 届いたファンレターの指摘をどう捉えてその後どうするかは著者次第。「うるせー! 私は詳しいんだ!」と跳ね除けるもよし、受け入れ訂正するもよし。それは著者の勝手です。そして、その対応について我々がまた「ファンレター」を送るのも自由です。

 そもそも、『浅草』はまだ世に出ていない小説です。小説家はあくまで世に送り出した作品によって己の主義主張を語るべきだ、というのが私の持論ですから、厳密にはまだ、我々は氏の「Aセクシュアル像」についてあれこれ論じるべきではありません。まあ散々あれこれ言った後ですけど。

 ともあれ、小説を読んでもいないのにこれ以上言葉を重ねるのは野暮でしょう。よって、この記事はあくまで前編とし、氏の『浅草』読了後の感想文を以って完結とできればと思います。

 来週発売らしいです。楽しみですね。

実写版『アラジン』のジャスミンがどうしても好きになれない

 今年の6月に、実写版『アラジン』の日本公開がスタートしました。今年の夏は私事でばたついていて、映画を観るだけ観に行ったあと、世の中の評判についてはあまりきちんと追えていなかったのですが、もうそろそろネタバレも許される頃合いになったかな、と思うので言います。

 どうしてもジャスミンが好きになれない。鼻につく。

 理由はかなりはっきりしていて、要は「ここ最近のディズニー映画の『おもねり』が凝縮されているから」というお話なのですが、もう少しだけ詳しく説明させてください。別にジャスミンというキャラクターは何も悪くないんだ。

※当記事には当たり前のように実写版『アラジン』のネタバレがバンバン出てきますので、まだご覧になっていない方はご注意ください。リメイクされた名曲の数々がとってもかっこいい映画なので、是非劇場で観てね。

 実写版『アラジン』におけるジャスミン

 本作におけるジャスミンには、いわば原作であるアニメ映画版ジャスミンとは異なる点がいくつか存在します。もちろん他のキャラクターたちも実写化にあたって設定の変更やキャラクター像の掘り下げ、新解釈等が行われているのですが、ジャスミンのそれは物語のラストに特に大きな影響を及ぼしています。

 ジャスミンアニメ版からしてそもそも行動的なキャラクターです。「自分の誕生日までに結婚しなければならない」ことが嫌で嫌で遂に王宮を抜け出してしまうくらいで、アラジンと結ばれたあとのスピンオフアニメではお忍び街歩き常習犯になっています(まあ、スピンオフアニメはそうでもしないと話のネタが尽きてくるという事情も多分に絡んでくるとは思いますが……)

 実写版ジャスミンにおいてもその行動力は健在。アラジンとの出会いのきっかけになる家出も、大事件として扱われていたアニメ版と違い冒頭からあっさりとこなしてしまいます。が、ここでの動機はあくまで「自分の目で城下町を見たかった」というもの。アニメ版と同じく数多の求婚者を退けている描写はあるものの、結婚までの期限には言及されていません。

 ここでキーになるのが「自分の目で街を見たい」というこの発言。実写版ジャスミンは己の中に「理想の為政者像」を有しており、それが「国民に寄り添うこと」であるとのちに明かされます。

 悪役ジャファーが企てたクーデターに際し、実写版ジャスミンは持ち前の勇気と国民たちへの強い思いで国王サルタンの危機を救います。

 全ての事件が解決したのち、サルタンは娘ジャスミンの行動を讃え、そして「王位をお前に譲る」と語るのです。

 そう。実写版ジャスミンは自ら王になることでアラジンと結ばれます

 アニメ版におけるサルタンの対応は、あくまでアラジンに感謝し「『王子でなければ王女とは結婚できない』という法律を変える」というものでした。その後の2人については詳しく明かされていませんが、おそらく順当にいけばサルタンの死後はアラジンが王位に就くのでしょう。

 対する実写版ジャスミンは、自らが王として政治を執り行い、自分で法律を変えることによってアラジンとの婚姻も可能にしてしまいます。「法律を変えてアラジンと結婚できるようにする」という結論は一緒ですが、そこに至るまでのルートに大きな違いがあるわけです。

本当にお前は王になりたかったのか?

 今までの古い風習と決別し、自分の娘に王位を譲ることを決めたサルタンの英断は称賛されるべきだと思います。まあ、仮にアラジンが王になったところで政治とかできるわけありませんからね。

 ただし、ここでひとつ疑問が浮かび上がります。それは、ジャスミンが本当に王になることを望んでいたのかという問題です。

「いや、王位譲られてハッピーエンドなんだから望んでたに決まってるじゃん」という反論はご尤もなのですが、それにしてはジャスミン自身の「王になりたい」「自分が政治を執り行いたい」という描写が作中ではかなり希薄なんです。

 政治に関する信念についても、上述した「民と共にありたい」というそれだけで、為政者として強い信条を持っているようには見えません。

 今回『アラジン』が実写でリメイクされるにあたって新しく追加された『スピーチレス〜心の声』というジャスミンのソロ曲があるのですが、この曲からも「自分が王国を牽引していく存在になりたい」という願いやメッセージは読み取れませんでした。

 あと、この歌詞もやや鼻につくポイントを加速させています(理由は後述)。

『スピーチレス〜心の声』で歌われているのは「今までは黙っていることが賢いと教えられてきたけれど、もう誰も私を止めることはできない。今こそ声を上げて自由になるのだ」という内容。王女という枷から自由になりたいという意味にも、はたまた別の意味合いにも取れます。

 また、劇中で悪役ジャファーに「お前はどうせ飾りなんだから美しければそれでいいんだ。余計なことは言わずに黙っていろ」と脅されるシーンはあるものの、ジャスミンが為政に興味があり、積極的に自らの父の政治に介入しようとしていることを示すシーンはほぼありません。ジャファーの暴走を見咎め、その進言に心を動かされそうになっている父を諌めるのが精々です。

 これが例えば「小さな頃から『女のお前には必要ない』と言われながらも政治の勉強をしてきた」「今では臣下を差し置いて父サルタンに助言をしようとすることもある」くらいの描写が少しでも入っていれば、話は違ったのでしょうが。

 乱暴な言い方をしてしまうと、実写版ジャスミンには国王になりたいという強い意志も、その能力もないまま、唐突に王の座を明け渡されたように見えてしまうのです。

なぜジャスミンは王にならなければいけなかったのか

 もちろん、実写版ジャスミンは実在の人間ではなく、あくまで映画『アラジン』のいちキャラクターです。ですから、ジャスミンに「王になる覚悟もないまま即位しやがってこいつ〜!」という怒りを抱くのは完全なるお門違いです。

 ここで議論されるべきは、「では作品世界の神である製作者は、一体なぜジャスミン為政者としての適正に関する描写不足のまま即位させてしまったのか」という点でしょう。

 もちろん、これが意図的なものだとは思いません。『アラジン』という映画は、ジャスミンが王になることを肯定的に描いています。ということは、少なくとも制作陣の中には「ジャスミンは王になりたがっていて、その資質がある」という設定は存在しているはずです。もっと言えば、意図があってわざわざ付け加えた設定のはずです。にも関わらず、その掘り下げがあまりにも浅く、甘い。

 ここへきて、ジャスミンというキャラクターが「王にするためだけに祭り上げられた」「お仕着せの『強い女性』」にしか見えなくなってしまったのです。

ディズニーの「女性解放」ブーム

 近年、ディズニーは作品の方向性を大きく転換しました。少し前からその兆候はありましたが、そのメッセージ性が広く知られるようになったのは、やはり『アナと雪の女王』でしょうか。

 差別意識への強烈な自己批判を放った『ズートピア』やディズニー版マッドマックスと囁かれた『モアナと伝説の海』。極めつけは実写版『美女と野獣』にエマ・ワトソンを起用し、主人公ベルを聡明で強い女性として描いたことでしょう。

 今回の実写版『アラジン』におけるジャスミンが、これらの系譜を引き継いで作られたキャラクターであることは明らかです。

アナと雪の女王』では、己の持つ能力に怯え、ひた隠しにしてきたエルサが、家族愛という「真実の愛」によって自身を肯定する過程が描かれました。そこには今までのディズニーが放ってきた「女の子の幸せは自分を愛してくれる運命の人に出会って結ばれること」というステロタイプへの自己批判があります。

 大ヒット曲『Let It Go』は、自分を解放し、自立して生きることを望む全てのマイノリティたちへの力強い応援歌となりました。

 前述したジャスミンのソロ曲『スピーチレス〜心の声』も、歌詞だけ見ると大体同じようなことを言っています。メッセージ性は『Let It Go』より更に強いくらいかもしれません。

 だからこそ、それが鼻につく。

 エルサは良いんです。だって、『アナと雪の女王』はエルサが自分を解放する物語であり、彼女には「自分の力を抑圧してきた」「そこから自由になりたい」という葛藤があったのですから。悩みに悩んだ末にブチギレて山で城建てながら歌うのだから、かなりの説得力があります。

 一方の『アラジン』は、あくまで「主人公アラジンが魔法のランプを手に入れ、なんやかんやして王女ジャスミンと結ばれる物語」であり、前述のように、ジャスミンの葛藤を示す作中描写はほとんどありません。

 つまるところ、意地悪な言い方をすると「『Let It Go』がウケたし、ジャスミンにもとりあえず同じような歌を歌わせとけ」という意図で制作されたようにしか見えないわけです。

 お仕着せの即位、『Let It Go』のセルフパクリみたいな新曲、粗雑なキャラクター設定。これらを総合したとき、私の目にはどうしても、ジャスミンが魅力的ないちキャラクターとしてではなく、ディズニーの「女性解放ブーム」のための舞台装置にしか映らなくなってしまいました。

「結婚して幸せになりたい」は悪なのか?

 私は『アナと雪の女王』が好きです。『モアナと伝説の海』はもっと好きです。『ズートピア』に至っては劇場に6回くらい足を運びました。そして、それら全ての映画に出てきた「強い女性」像を絶賛してきました。

 要は、ディズニーの「女性解放ブーム」に加担していた側です。

 映画は商売ですから、常に「ウケる」ものを作らなければなりません。そういう意味では、エルサやモアナやジュディを手放しで称賛してきたいち消費者の私にも、ジャスミンを舞台装置にしてしまった非があります。

 けれど、今一度強く主張しておきたいのは「自分を幸せにしてくれる王子様をひたすらに待ち望む」ことだって、尊重されるべきひとつの価値観だということです。

 別に、ジャスミンが真実の愛に目覚めて「今まで結婚とか嫌だったけど、この人とだったらしてもいいな」と思えるだけの話でも良かったと思うんです。

 為政者としてのジャスミン像を作り込めないまま、ポッと出の「Let It Goもどき」を歌わせるくらいなら、彼女は「旧型のディズニープリンセス」のままでも良かったのではないでしょうか。そもそも、原型のアニメ版からして、いわゆる「ディズニープリンセス」の中ではかなりアクティブな方だったのですから。

トークンバニー」は誰?

 そういうわけで、私は実写版『アラジン』におけるジャスミンを悲劇のヒロインとして認識しています。彼女を無理やり王にしてしまったのは、ディズニー制作陣の都合であり、彼らの「女性解放」の系譜を大絶賛してきた我々です。

 私の大好きな『ズートピア』に、こんなセリフがあります。

「私はどこかのトークンバニーじゃないのよ」

 主人公であるジュディが「うさぎ初めての警察官」として配属された先で自身の扱いに不満を覚え、上司に向かって発したものです。

 これは「トークンマイノリティ」という言葉のもじりで、要は「『差別的だ』という批判を退けるため、お飾りで物語や組織に含められている人」を指します。

 たとえばアメリカが舞台の映画なのに白人しか登場しない場合、「差別している!」という誹りを受けるのをまぬがれるため、とりあえず黒人や東洋人をちょろっと出しとくか……という意図で投入される、特に意味のない役がそれです。

 ジュディはそうした「トークンマイノリティ」を指して「自分は『うさぎにも差別してませんよ!』と主張するために配属されたお飾りの警官ではないのだから、きちんとした仕事をくれ」と言っているわけです。

 この一言、実写版『アラジン』においては完全にブーメランです。もともとがディズニーの自己批判の塊のような『ズートピア』ですが、それが一周回って未来の自社に突き刺さることになるとは、多分誰も思わなかったことでしょう。

 少し前に『トイ・ストーリー4』でも似たような話題が議論されていました。ヒロインとなるボー・ピープというキャラクターの、前作以前からの大きな改変です。性格も見た目も大幅に変更されたことは、以前のボー・ピープを愛していたファンからの批判を呼びました。

 きっと、この後もディズニーは沢山の「逞しい女性」を世に放つでしょう。それ自体は素晴らしいことだと思います。私は相変わらずジュディが好きですし、『アナと雪の女王2』が公開されたら初日に観に行きます。

 けれど、作中に登場する全ての女性を強くて賢くて独立精神旺盛なキャラクターに塗り替えてしまう前に、いまいちど、その必要性が本当にあるかどうか、誰か考えてくれたら良いなあ、と願ってやみません。

 彼女たちはみな作品世界の中では生きた存在であり、誰ひとりとして「トークンバニー」であってはならないのですから。

「遅れてるね」と言いたくない

 世の中の格差や差別意識の是正への取り組みの文脈で「遅れてる」とか、反対に「先進的だ」とかいう言い方をすることがあります。例を挙げるなら「結婚して家庭に入るのが女性の幸せだよね」なんて真顔で言っちゃう上司に対して「センパイ、その考え古いですよ」「そんな価値観は時代遅れですよ」とか答える、ああいうやつです。

 これはちょっと極端な例ですが、実際「進んでる」「遅れてる」という言葉で価値観を評価することは、それこそお酒の席での気軽な雑談からもっと真面目に意見を表明する場まで多々あるのではないかと思います。……で、我ながら重箱の隅をつつくような感想ではあるのですが、この言葉が嫌いです。

 記憶力の良い方は「は??」と思ったかもしれません。だって、ひとつ前のエントリで私自身が「遅れてる」的評価を使ってるんですよね。

そんな言説は博物館に展示してある化石みたいなものだとばかり思っていましたが、こうして周囲の人間をみるに、このご時世でも充分幅を利かせているのかもしれません。

人は自信がつくと「性別論者」になるのかもしれない - まだ恋愛で消耗してるの?

 その舌の根も乾かぬうちに、と思われるかもしれないのですが、一度書いてしまったものは仕方ない。ので、自戒の意味を多分に込めたエントリです。

「遅れている」の何が悪いのか

 ちょっと上の小見出しをもう一度読んでほしいのですが、これって「あなたって遅れてるね」と言われた時に、言われた側がそっくりそのまま抱きそうな感想だと思いませんか?

 実際のところ「遅れている」という言葉は、かなり色々な場面で使われます。

 たとえば、便利なアプリを無料でダウンロードし放題なこのご時世にフィーチャーフォンガラケーのことです)を使っている人に向かって。

 たとえば、メモは手書きに限るのだと口を酸っぱくして部下に指導する上司に向かって。

 たとえば、エクセルを方眼紙にする人に向かって。……いや、これは遅れてるとか遅れてないとかじゃないですね。絶対悪です。これだけはキレていい。サーチアンドデストロイ。

 ……さておき「遅れている」「進んでいる」というのは、要はその時代において主流の技術なり価値観なりが基準となった、相対的な価値観です。「今はみんな甲なのに」「それに対して乙なあなたは」「遅れている・進んでいる」というわけですね。つまるところ「遅れている」も「進んでいる」も、時代の流れに対してマイノリティであるということになります。

 ここに2つの問題があります。ひとつは、そもそも「時代の流れ」というものが目に見えない、曖昧模糊とした存在であること。そしてもうひとつは、ともすれば「マイノリティである」ということそれ自体を切り出して「だから良い・だからダメ」と評価している論調に見えかねないこと。これは、ことマイノリティや差別問題について語るときには絶対にあってはならないことですが、言葉の上っ面だけを掬えば「あなたは時代の感性というマジョリティに対するマイノリティである。だからダメ」と言っているように聞こえかねません。

 もちろんこれは揚げ足取りに過ぎないのですが、無意識のうちに偏見や差別意識を抱え込んでしまっている人にとってはそもそも何が悪いのかわからないのですから「自分は時代から取り残されてる、"遅れた"マイノリティだから悪いってのか」と誤解してしまったとしても不思議はありません。

 そうなってくると「遅れていて何が悪い」「猫も杓子も甲と言うご時世だが私は乙を推してやる!」と、こういうへその曲げ方をしてしまう人が出てくるわけですね。極稀に「私は時代遅れな人間なので」と「時代遅れ」を免罪符のように繰り出してから堂々と差別感情について語り始める人がいますが、おそらくはこういうメンタリティになっているのではないかと思います。

 そもそも差別の是正は流行り廃りではない

 上述の問題に付け加え、相手に差別意識や偏見を「時代遅れである」と告げることは、差別の是正や偏見の解消を一時的な流行りであると印象づける危険性もあります。

 そもそも、今我々が語ろうとしている問題は、相対的な評価軸で判断を下せるものではないはずです。人権は「昔と比べて良くなったから」とか「どこそこの国と比べてこうだから」という切り口では議論できません。全ての人間が、絶対的に有している尊厳ですから。

 もちろん、上で書いたようなことは「遅れているね」と言う側にとっては当然のように理解していることだと思います。「遅れていることの何がダメなんだ、それこそマイノリティ差別じゃないか」という反論は、あまりにも本質から外れた、揚げ足取りにしか見えないでしょう。けれど、どうせなら取られる足はない方がよいし、わかっていて揚げ足をとっているのならともかく、本当にそういう風に「よくわからない『世間』とやらから爪弾きにされている!」と思い込んでしまう人がいたら、それはお互いにとって、とても不幸なことだと思うのです。

では代わりになんと言うべきか

 先に結論から書いてしまうと、これについては私も正解がわかりません。人権問題が相対的な評価軸で判断をくだせない問題ならば、本来は「正しい」「間違っている」と言うべきなのかもしれませんが、それにもどうしても違和感があります。

 もちろん、ある特定の属性を持つ人に対して差別的な感情を持つことは、絶対的に「間違っている」行為です。私はその点について自分の「正しさ」を信じていますし、これはゆるぎのないものだと思っています。けれど、誰かに「あなたの価値観は間違っている」と伝えなければならないとき、その事実を抜き身で突きつけるよりもよい相互理解と説得の方法があるのではないかと、どうしても考えてしまうわけです。もしかするとそれは、単に「あなたは間違っている」と指摘することに怯える私の逃げなのかもしれませんが。

 そういうわけで、このエントリに結論はありません。結局のところ、誰に何をどう伝えるべきかなんて「時と場合に寄」りますし、かといってひとりひとりの顔を見てお話しましょう、なんて言っていたらブログもTwitterも畳まなければいけなくなるので。

 ただ、私個人として「あなたは遅れている」「その考え方は時代錯誤だ」という言い方は安易に言わないようにしていきたいなあ、という、それだけのお話でした。

人は自信がつくと「性別論者」になるのかもしれない

 大学卒業以来久しく会っていなかった友人とお酒を飲みに行ったら「性別論者」になっていました。思えば元から根強い「悪意なき偏見」を抱えているタイプではあったのですが、それでも今まで親しく付き合ってきたのは、基本的には「いいやつ」であり、「世の中の恋愛礼賛って息苦しいよね」という価値観を共有できる仲間だったからです。大学時代はよく居酒屋で一緒になって管を巻いたりしていました。

 そういう仲だったので、その日もいつもの愚痴の延長線上で「こういう『男女あるある』って嫌だよね」という話をしたわけです。そうしたら返ってきたのが

「いやでも、男なんて(女なんて)基本、みんなそんなもんだよ」

 という言葉。ちなみに友人は身体的性別・性自認共に男性で、恋愛対象は女性。世の中においてマジョリティとされる属性を有しているわけですが、そんな彼の口から、全てのマジョリティを代表するような口調で「そんなもんだよ」が出てきた。びっくりしました。確かにここ1年くらい会っていなかったけれど、そして上述の通り「悪意なき偏見」に足を掬われがちなひとではあったけれど、ここまでカチコチだったかなあ? と。

 それで詳しく彼の話を聞いてみると、どうやら碌に連絡をとっていなかったこの1年間、様々な女性と交際を持ったのだそう。ちなみに今も彼女がいるようで「今とっても幸せだよ」と嬉しそうに報告してくれました。

 うん、それは良い。私も人の子なので、友達が幸せそうにしていたら嬉しくなります。けれど、よくよく話を聞いてみると、いつの間にやら彼の中に巣食っていた「性別論」は、どうやら多くの女性と交際を持って「男性としての自信」がついたことに起因するようなのです。いやそもそも男性としての自信ってなんやねん、って話ではあるのですが。

 思えば、それまで彼はいわゆる「非モテ」で、お酒の場で女性経験が無いことを馬鹿にされることもあるようでした。彼いわく、それが「くやしくて」多くの女性と経験を持ってみた、とのこと。その結果「男女って結局こうだよね」という性別論に行き着いたらしいのです。

 なるほど、と思いました。おそらく彼にとって今まで得体の知れなかった恋愛市場は、既に攻略可能な「ゲーム」となり、今や彼はその攻略者です。だから多分、本当に善意で、未だミュウツーを捕まえていない友達に「ハナダのどうくつにいるんだぜ」と教えてあげるのと同じ感覚で「男なんて基本こうだよ」と言っている。彼には本当に、なんの悪気もないんだと思います。

 ひとくちに「男」「女」なんて言ったところで、性格は十人十色です。当たり前です、ひとりとして同じ人間はいないので。ところがそれが「恋愛市場」という俎上に乗った途端「攻略する・される」の関係へと画一化されていく。

 トロフィーワイフの例にもあるように、男性にとって社会的な成功は恋愛市場での成功とイコールとされてきました。社会的に成功を収めた男性はモテる。逆説的に、美しい女性を手にした男は、即ち社会的成功者である。そんな言説は博物館に展示してある化石みたいなものだとばかり思っていましたが、こうして周囲の人間をみるに、このご時世でも充分幅を利かせているのかもしれません。

 もちろん、彼はあくまで私の周囲にいる人間のたった一人に過ぎず、あくまで私がたまたま観測したひとつのサンプルケースです。全ての人がそうだとは思いませんし、彼もいずれ考えを改める日が、きっと来ます。来てくれ。

 けれど、彼からすれば未だに「恋愛ゲームの攻略法がわからないかわいそうなやつ」の私は、どんな言葉で以ってその驕りを諌めたらよいのかわからないまま、気付けばビールを5杯くらい空にしてお店を後にしていました。次会った時には、真正面から言葉を交わせますように。

Asexualとはなにか

 このブログを以前から知っていて読んでくださっている方にとっては今更だと思うのですが、移転前のブログ記事に書いていたようなことを改めて書いておきたいと思います。すなわち「Asexual(エーセクシャル・アセクシャル)」ってそもそも何? というお話です。

LGBT・SOGIとは

ちょっとお話が複雑になってしまいますが、Asexualについて語るには、LGBT及びSOGIの話を避けては通れないと思っています。なぜなら、Asexualとはセクシュアルマイノリティ性的少数者)と呼ばれる概念の一種であり、セクシュアルマイノリティを理解しようと考える人が一番最初にぶち当たるのが「LGBT」「SOGI」という単語だからです。

 とはいえ、あまり長々と説明してもこんがらがってしまいますし、私自身、たくさん横文字が出てくると目眩がしてしまうタイプの人間なので、最低限度の説明で済ませますが、もう知ってるよ、という人はさらりと読み飛ばしてください。

LGBTとは

 LGBTとはレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー」のそれぞれの頭文字をとった単語で、いわゆる「セクシュアルマイノリティ」と呼ばれる人たちの総称として使われています。もちろん世の中には上記の4種類以外のセクシュアリティ(=性的指向)の人もたくさんいますので、あくまで知名度が高いものを代表的に呼び表しています、と言ったところでしょうか。海外で醤油が「キッコーマン」と呼ばれているのと似たようなものだと思います。多分。

 派生としてLGBTQとかLGBTAとかいろいろありますが、要は基本となる「LGBT」に「この属性も一緒に並べておこうぜ!」という意図から新たな英字がくっついているだけの話なので、気になる方はご自分で調べていただけるとよいかと思います。

SOGIとは

LGBTが、数あるセクシュアリティの中でも代表的なものの頭文字を集めてセクシュアルマイノリティの代名詞としたものだ、ということはご理解いただけたかと思います。一方のSOGIは、複数単語の頭文字を集めたものではなく「Sexual Orientation & Gender Identity」の略です。英語が苦手な人は既に目が滑ったかと思います。安心してください、初見は私も目が滑りました。

「Sexual Orientation」とは性的指向、すなわち「どんな人を好きになるか」を指します。

「Gender Identity」とは性自認、すなわち「自分をどんな性別だと思うか」を指します。

 つまり、LGBTがある属性を持つ人達をピックアップして代表者として扱っているのに対して、SOGIとは単に「性的指向性自認」を指す言葉なので、異性愛者だろうが身体と自分の自認する性が一致していようが無関係ではないのです。普段意識することはありませんが、異性を好きになる人は「ヘテロセクシュアル」という「性的指向があります。自分の身体の性別と自分の心の性別が同じ人は「シスジェンダー」という「性自認です。

 ある「特別な人たち」の集まりとしてピックアップして括る「LGBT」よりも、誰にでも関係のある事柄としての概念を表す「SOGI」の方が、私は好きです。

 ただし、SOGIには圧倒的にLGBTに劣る点が2つあります。

 ひとつは「包括する概念が広すぎる」こと。SOGIというキーワードにはセクシュアルマイノリティ以外の人々もガッツリ含まれるので、取り立てて「セクシュアルマイノリティと呼ばれる人々について話したい時」にはあまり向かない気がします。

 もうひとつは知名度。これは言うまでもないかと思います。

 故に、本ブログでは、特別な理由がない限りは、一旦「LGBT」という単語を使っていこうと思います。「よく知らない」人にも伝わることが大事ですからね。

Asexualとは

 ようやく本題に入ることができました。長くなってすみません。「Asexualとは、LGBTと呼ばれるセクシュアリティのひとつ」です。LGBTがなんの略かは上述の通りなので、思いっきり「LGBT」という単語からはハブられている側のセクシュアリティですが、それでも「LGBTのひとつ」なのです。

 さて、AsexualはSOGIでいう「Sexual Orientation」すなわち「どんな人を好きになるか」に関わる言葉です。「Gender Identity」自分をどんな性別だと思うか、には関係がありません。

 簡単に説明してしまうと、Asexualとは、相手の性別に関わらず、他者を性愛対象として見なさないセクシュアリティです。これだけではピンと来ない方も多いかもしれませんので、もう少し突っ込んで説明しますね。

 LGBTのうち「レズビアン」は「女性として、女性を性愛対象とする」人のことです。「ゲイ」は「男性として、男性を性愛対象とする」人のこと。異性愛者はそれぞれ「男性として、女性を性愛対象とする」「女性として、男性を性愛対象とする」人を指します。

 つまり、「レズビアン」を自認する人にとっては男性は性愛の対象外ですし、「ゲイ」を自認する人にとっては女性は性愛の対象外です。異性愛者にとっては同性が性愛の対象外になります。

 同じように、Asexualは「全ての性別の人達が性愛対象外」です。だからといって別に、人間嫌いなわけでも、無機物や動物に愛情が向いているわけでもありません。よく勘違いされるので、これだけはしっかりとお伝えしておきたいなと思います。

 よく「Asexualの人の気持が想像つかない」という方と出会います。そういう時は、自分にとって性愛対象にならない性別について想像してみてください。別に性愛対象にならないからといって嫌いなわけではありませんよね? それと同じで、Asexualは別に全人類を憎んでいるとかではないので、安心してお友達になってください。よろしくおねがいします。

AromanticとAsexual

 最後にもうひとつ、おまけの話をしたいと思います。先程から繰り返し「Asexual」という単語を使っていますが、この単語と同じくらいの頻度で目にする「Aromantic」という言葉についても解説させてください。人によっては「ノンセク」という単語の方が耳馴染みがあるかもしれません。

 英語圏セクシュアリティに関する単語のラベリングは、命名規則がはっきりしています。「-sexual」というのは性愛に関する指向を示す言葉、そして「-romantic」というのは恋愛に関する指向を示す言葉です。

 日本で一般的に「Aセクです」と言うと「他人に対して恋愛感情も性愛感情も抱かない人」と見られがちですが、実はラベリング上では性愛と恋愛ははっきりと分けられていて、この単語の組み合わせで自分の性的指向をより正確に言い表すことができるんですね。

 最初は「なんだこれややこしい」と思うかもしれませんが、慣れるととっても便利です。

 たとえば「異性に対して恋愛感情は抱くけれど、性愛感情は抱かない」という場合。異性愛ヘテロなので「Heteromantic」と「Asexual」を足して「Heteromantic Asexual」となります。

 同性に対して恋愛感情は抱くけれど、性愛感情は抱かないのならば「Homoromantic Asexual」。

 反対に「誰にも恋愛感情は抱かないけれど、異性に対して性愛感情は抱く」という場合は「Aromantic Heterosexual」と言い表すことができます。

 このうち「誰にも恋愛感情を抱かないし、性愛感情も抱かない」というパターンが「Aromantic Asexual」になるわけです。海外だとよく両方略して、セットで「aro/ace」とかいう言われ方をします。この記事を書いているうつせみも、自分をここにあたる人間だと自認しています。

結局「Aセク」ってなんなんだ

 ここまで読んでなんとなく想像がついてくれた人は良いのですが「余計わけが分からなくなった、結局『Aセク』ってなんやねん」と思った人は、以下の一言だけ覚えて帰ってください。

異性愛者が同性を好きにならず、同性愛者が異性を好きにならないように、同性・異性共に好きにならない人(自分の性別は関係ない)

 以上、よろしくお願い申し上げます。

ブログ移転のお知らせ

 以前利用していたWordpressレンタルサーバーが、運営会社が変わったことで更新できなくなってしまったので、本ブログに逃げてきました。もともとさして更新もしていなかったブログではありますが、Twitterアカウントと同じく、私の中では「帰ってくる場所」でもあるのと、ブログ記事をきっかけにAセクについて知ってくれた方や、同じような境遇にあって励まされたと言ってくれた方が少なからずいらっしゃったので、ブログの更新は続けていきます。

 唐突にブログが消えてしまったので「うつせみ死んじゃったのかな……?」とか思っていたフォロワーのみなさんもご安心ください。

 最もベストなのは過去記事をこちらに移してくることだったのですが、それも難しそうなので新生ブログとしてやっていきます。タイトルが何やら攻めた感じに変わりましたが、あくまでパロディ、特定の誰かや何かをdisる意図は一切ございませんのでよろしくお願い申し上げます。

 せっかくブログが移転したので、これを機にもう少しこまめに・赤裸々に更新していくことを目標にできればと思っています。以前のブログを開設したときには、あくまで「Asexualというものをいろんな人が知ってくれる契機になればいいな」とか「同じような悩みを持っている人が少しでも心が軽くなればいいな」という気持ちで更新していたのですが、今後は割と個人的な話題のエントリも増えてくるかと思います。

 それでもお付き合いいただける方は、今後共、何卒よろしくお願い申し上げます。