まだ恋愛で消耗してるの?

世界の隅っこ気味のAセクのブログです

Aセクが主人公の官能小説は「アリ」なのか

 昨日、こんなツイートを発見しました。

 最初に読んだときは一体何のことだろう、と思ったのですが、調べてみると、どうやらそういった小説が近々雑誌に掲載されると著者本人がツイートしたことにより、Aセクシュアル当事者の間で話題になっていたようです。

 発端と思われる作品紹介のツイートはこちら。

 この記事を書いている今、先に引用したツイートのアンケート結果は未だ出ていませんが、今のところは「不快に思う」派が優勢の様子(2019/10/1現在 得票数403票時点)。

 この「Aセクシュアルが主人公の官能小説」問題について、個人的に少し思うところがあったので筆を執ります。

※その後、著者自身のコメントで「官能小説」ではなく「官能括りの小説」であると説明がなされていますが、正直個人的にはどちらであろうと論じるには大差ないので、発端となったツイートで使われている「官能小説」という単語を使っています

Aセクの官能小説は「アリ」か?

 結論から言ってしまうと、上記の問いかけに対して、私は「アリだ」という立場をとっています。理由は以下です。

  • Aセクシュアルが性産業に従事している、という小説内の設定は、現実にも存在しうる
  • そもそもある作品の設定について、それだけを引き抜いて「アリか、ナシか」という問いかけはナンセンスである

 前者の理由についてはわざわざ論じるまでもないでしょう。Aセクシュアルと性嫌悪は別物ですから、当事者が性産業に従事するのは充分あり得る話です。ので「性産業従事者のAセクが主人公の作品である」という点は批判の対象にはなりません(それがたとえ「官能小説」だったとしても)。

 後者の理由については大いに賛否が分かれるところだと思いますが、少なくとも私は、文芸という表現の場ではどのような舞台・キャラクター設定も、設定だけなら許されると思っています。

 但し、小説はその性質上、物語と切り離すことはできません。主人公がAセクである必要性が全く感じられないとか、キャラクターの設定が雑過ぎて行動原理が理解できないとか、そういう場合は確かに批判されても仕方ありませんが、それはあくまで作品批評としての観点からの話です。

 また、蓋を開けてみて主人公の言動に非当事者からの誤解を招くような描写があれば、その時には今度こそ、ポリティカル・コネクトレスの俎上に載せられることになるでしょう。

 少なくとも、今わかっている「主人公はMtFAセクシュアルで、性産業に従事している」という設定それだけでは、批判の対象にはなり得ないと思います。

 だからといって、今回の件に一切の問題が無いわけではありません。作品の名称を取ってざっくりと「『浅草』騒動」と呼んでしまいますが、この騒動についての論点は、作品にAセクシュアルMtFが出てくることそれ自体ではなく、もっと別のところにあります。

『浅草』騒動は、何が原因か

 実際、Twitterで『浅草』について言及している当事者のほとんどは、登場人物の設定それ自体ではなく、それを紹介する著者のツイートの方に苦言を呈しています。設定を見て「おや…?」と思った当事者が呟いた、それに対する著者の反応がまずかったわけです。

 該当するツイートは、2019/10/1現在では以下です。

※個人宛のリプライは省いています

 これら一連のツイートから、以下のことが推測されます。

  • 著者は性的マイノリティに興味・関心を抱いており、たびたび自作の題材にしている
  • 著者はAセクシュアルと性嫌悪を混同している
  • 著者はトランスジェンダーの多くは自分とは異なる性別に「憧れ」を抱いているものだと考えている
  • 著者はトランスジェンダーの多くは性適合手術を行っていると考えている
  • 著者は性自認という単語の存在を知らない

 上2つは説明する必要もありませんが、下3つについては「何故?」と思われる方もいるかもしれませんので補足しておきます。

 一般に「この登場人物はAであるがBだ」と言った場合、それはAという属性の中ではBであることは珍しい、といった文脈になります。

たとえば「私は日本人であるが寿司が嫌いだ」といった文章がそうです。本当に日本人の大多数が寿司好きなのかは関係ありません。〜だが、という接続詞を使った時点で、少なくとも話者の中では「AでありながらBであることは珍しい」という前提が存在することになります。

 更に、著者は主人公について「憧れたのではなく」「心を病んで手術した」と言及しています。しかも心を病んだ理由は周囲から本来の性とは異なる性別として扱われることではなく、恋愛圧力や結婚圧力としています。これらの圧力によるストレスと、性自認は無関係です。にも関わらず、その2つを因果関係として直線で結んでいる。以上のことから、著者は「性自認」という概念を知らず、トランスジェンダーが性適合手術に踏み切る理由は「異性への憧れ」もしくは「心を病んだから」のどちらかだと考えている可能性が高いと推測されます。

 これは正直、トランスジェンダーの当事者は怒っていいと思います。

Q.重箱の隅、つつき過ぎじゃね?

 そんなの言葉の端っこ捕まえて揚げ足取ってるだけじゃん、と思われる方もいるかもしれませんが、忘れないでください。この方は小説家です。使う言葉の精度は常人のそれ以上でしょう(と、本人の為に信じておきます)。

 にも関わらずこのような杜撰な説明をしているということは、それは氏の認識そのものが杜撰だからに他ならないはずです。

 もっと言えば「言葉が杜撰だっただけで認識はちゃんとしてます!」などと宣言することは、翻って己の文章能力の低さを喧伝してしまうことになりかねないので、今後の対応としてはおすすめできません。

 今のところ、Aセクシュアル当事者から寄せられた声については「私はマイノリティをテーマとして扱っている(≒うるせー! 私は詳しいんだ!)」という、やや高圧的ともとれる言葉を以って返答としていますが、氏の発言を見る限り、メインテーマとして扱うなら、もう少し勉強した方が良いんじゃない? という感想を抱かずにはいられません。

 ……とはいえ、氏は決して適当な気持ちでAセクシュアルという題材に手を伸ばしたのではないと思います。当事者たちが絶えずぶつかり続けている「0の証明」に言及しており、また執筆にあたってAセクシュアルについて専門的に解説された本に当たっていることを匂わせていることからも、それが伺えます(ま、慌ててアピールしているのかもしれませんが)。

 少なくとも、別にAセクシュアルを「面白そうなネタだ、しめしめ使ってやろう」という心持ちで見ているわけではないと思います。たぶん。

 ので、我々当事者及び有識者のすべきことは、「Aセクシュアルが官能小説に登場すること」を否定することでも、著者の理解不足を糾弾するのでもなく、あくまでいち読者の立場として「ファンレター」くらいの軽さで間違いを指摘してあげることだと思います。

 届いたファンレターの指摘をどう捉えてその後どうするかは著者次第。「うるせー! 私は詳しいんだ!」と跳ね除けるもよし、受け入れ訂正するもよし。それは著者の勝手です。そして、その対応について我々がまた「ファンレター」を送るのも自由です。

 そもそも、『浅草』はまだ世に出ていない小説です。小説家はあくまで世に送り出した作品によって己の主義主張を語るべきだ、というのが私の持論ですから、厳密にはまだ、我々は氏の「Aセクシュアル像」についてあれこれ論じるべきではありません。まあ散々あれこれ言った後ですけど。

 ともあれ、小説を読んでもいないのにこれ以上言葉を重ねるのは野暮でしょう。よって、この記事はあくまで前編とし、氏の『浅草』読了後の感想文を以って完結とできればと思います。

 来週発売らしいです。楽しみですね。