まだ恋愛で消耗してるの?

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「お気持ち」についてのお気持ち、或いは納豆をめぐる2つの立場について

 Twitter上でフェミニズムに関わる議論がなされている時、しばしば目にする「お気持ち」という単語があります。これは大抵、フェミニスト(厳密な定義はさておき)を皮肉り揶揄する為に使われます。

 いつ誰が考えた単語なのかはわかりませんが、「お気持ち」は、いつの間にか、ジェンダーに纏わる話題の場で必ずと言ってよいほど登場する、いわばレギュラー枠のような存在になってしまいました。

 私自身、この「お気持ち」という単語についてあまり深く考えたことがなかったのですが、とあるツイートを目にして、以下のような疑問を覚えたので、少しだけ考えてみたいと思います。

  1. そもそも、一体なぜ「お気持ち」という単語が使われるのだろうか
  2. お気持ち上等」を掲げることは「お気持ち」論へのカウンターとして有効なのだろうか

 疑問を抱く発端になったのは、以下のツイートです。

 これが何かというと、#KuTooという、女性のパンプスからの解放運動についての本が出版されるにあたって巻き起こった、表紙の写真についての議論に対する出版社からの回答ツイートです。

 表紙の写真の是非や#KuTooそれ自体については、既に様々な方が言葉を尽くして語っているので、今更ここであれこれと論じるまでもありません。今回考えるのは、あくまで「お気持ち」という揶揄と、それに対する「お気持ち上等」というカウンターについてです。

 また、先に言っておくと、この記事にすっきりとした結論はありません。あくまで「お気持ち」という単語をひとりで捏ね繰り回したメモ書き、へりくだって言うところの「『お気持ち』についてのお気持ち」ですので、先を読まれる場合は時間をドブに捨てる覚悟を決めてください。納豆云々が何かを指すかは、読み進めればわかります

「お気持ち」は、なぜフェミニズムに対する批判として成立するのか

 実際に「お気持ち」という単語が批判として成立しているかどうかは置いておいて、この言葉がある程度の市民権を獲得している以上、そこには少なくとも「成立する」と考えている人が一定数以上存在することは間違いありません。

 彼らにとっては「お気持ち」はフェミニズムの矛盾を抉る単純にして痛快な単語であり、少なくとも「フェミニストのバーカ!」と叫ぶよりは「フェミニストのお気持ち野郎!」と言ったほうがフェミニストを論理的に批判できると思っていることは明らかです。

 では「お気持ち」とはそもそも何なのでしょうか。バカ丁寧に噛み砕いていきますが、これはそもそも「気持ち」という単語に接頭辞「」をつけ丁寧にした美化語で、もちろんこれは皮肉です。ニュアンスとしては、あまりにも尊大な態度ばかりとっている相手を揶揄して「先生」とか「誰それ御大」と呼ぶのと同じでしょう。

 つまるところ、この皮肉が意味するところは「実際にはそこまでの価値がないにも関わらず、御大層な何かがそこにあるかのように振る舞っている」という批判になります。

 では、修飾されている側、即ち「実際にはそこまでの価値がない」と断じられている「気持ち」とはなんでしょうか。辞書を引くと、以下のように解説されています。

  1. 物事に接したときに心にいだく感情や考え方。「気持ちのこもった贈り物」「お気持ちはよくわかります」
  2. ある物事に接したときに生じる心の状態。気分。感じ。「気持ちのよい朝」「気持ちの悪い虫」
  3. 物事に対しての心の持ち方。心がまえ。「気持ちを新たにする」「気持ちを引きしめてかかる」
  4. からだの状態から生じる快・不快の感じ。気分。「気持ちが悪く吐き気がする」
  5. 相手に対する感謝の心や慶弔の意などを表す語。ふつう謙遜していうときに用いる。「ほんの気持ちですが」「気持ちばかりの品を送ります」
  6. (副詞的に用いて)ほんのわずか。「気持ち長めに切る」 

※デジタル大辞林より引用

  当然、真っ先に出てくるのは1番の意味合いです。これは大抵、「考え」もしくは「感情」のどちらかの単語に置き換えることができます。

 たとえば、転職エージェントがこれから転職を考えている人に対して「転職について、今のあなたの気持ちを教えて下さい」と問いかけるときに使われる「気持ち」は「考え」に置き換えることができます。

 転職エージェントが聞きたいのは、「転職時期はいつくらいを考えているのか」「どんな職に就きたいのか」といった、YES or NOでは答えられない質問、つまり「あなたが今、転職について考えていること」です。

 一方、身内に不幸があった相手にかける「お気持ちお察しします」という言葉が指すのは「あなたが今抱えている感情は想像に難くありません」というメッセージです。

 そうして、この「感情」が、更に単純化されて「快・不快」になると、「気持ち」は大辞林が示すところの2番の意味合い、すなわち「よい・悪い」の二択から選べるものとして扱われます。

「気持ち」の精度はピンキリである

 そういうわけで、ひとくちに「気持ち」と言っても、「考え」から「快・不快のどちらか」まで、そこにはかなりのニュアンスの違いが存在します。

 このうち、おそらく「お気持ち」における「気持ち」が指すのは「感情」〜「快・不快のどちらか」の範囲でしょう。

 なぜなら「考え」もまた「お気持ち」に含めてしまうと、それは「お前の考え(≒主義主張)には価値がない」と根拠もなく断言しているだけになってしまい、それは要するにフェミニストのバーカ!」と叫んでいるのとほとんど変わらなくなってしまうからです。「お気持ち」という言葉はあくまで冷静で論理的な立場からフェミニズムを痛烈に皮肉るための道具のはずですから、それでは面目が立ちません。

 なので、ここからは「気持ち」とは「主に快・不快の二択に分類できる感情のことである」という前提で話を進めたいと思います。

 要するに「お気持ち野郎め!」と誰かが舌打ちするとき、それは「お前は、実際には論じられる価値もない『快・不快などの感情』を、さも論じるべき価値があるかのように喧伝しているムカつくやつだ」という意味になります。

「快・不快」という判断基準に価値はないのか

 随分と回り道をしてしまったような気がしますが、ようやくこの議題まで辿り着けました。すなわち「社会の中で生きる一個人が『不快』であることは、社会にその原因を取り除くことを要求する正当な理由になるのか、否か」という議題です。

 当然、「お気持ち」という単語を皮肉として使う側の答えは「」でしょう。理由はおそらく、こんなところだと思います(思います、という他人行儀な言い方をせざるを得ないのは、私がどちらかというといわゆる「フェミ」側の人間だからです)。

  • 「快・不快」はごく個人的な体験であり、普遍的なものではない
  • 一部の人々の「快・不快」は、お互いに対立するため、すべての「不快」を消し去ることは物理的に不可能だ
  • 故に、個人の「快・不快」を理由にして、社会に仕組みの改変を迫ることはできない

 この主張をもう少し噛み砕くために、たとえ話をさせてください。

 私は納豆が嫌いです。それはもう蛇蝎の如く、友人たちに「納豆に親でも殺されたのか」と問われるレベルで嫌っています。見た目も匂いも食感もだめです。あんな腐り果てた豆を喜んで食べている人間はみんな味覚の一部に重篤な障碍があるので日常生活に支障が出る前に病院に行くべきだと思っています。ですから、当然断りもなく目の前で納豆のパックを開けてねりねりしはじめる不届き者が現れたら、キレます

 しかしながら、これは私の「納豆が嫌い、匂いが漂ってくるのも嫌だ」という、ごく個人的な感情です。似たような感情を抱いている人は他にも存在するでしょうが、少なくともマジョリティではありません。旅館で朝ごはんを食べるときなど、老若男女が喜んで腐った豆を箸で突き回しているのを見ると、絶望と共にそれを痛感します。

では、お前はこの世から納豆を根絶しろというのか?

 というのが「お気持ち」論者の問いかけです。

 ごく個人的には、「そうだよ! 今すぐ根絶やしにしろ!!」と答えたいところですが、もちろんそんなことが不可能なのは分かっています。なので、こう答えましょう。

「それは無理かもしれないけれど、せめて、においの届かないところで食べてほしい」

 この主張には、当然こんな反論があります。

「旅館の部屋数だって無限じゃないんだ。なのに、お前が『納豆が嫌いだから』というだけの理由で、おまえのためにわざわざ別室を用意しろというのか」

「納豆が嫌いなのはお前の勝手なのだから、どうしても嫌なら朝食の席に来なければいい」

 たとえ話の題材に納豆を選んでしまったおかげでくだらない言い争いに見えかねませんが、実際、たとえばR指定の雑誌をめぐるゾーニングの話などは、彼らにとっては納豆をエロ本に言い換えただけの話に見えていたと思います。

(と書くと、まるでゾーニングの推進に異を唱えるように聞こえるかもしれませんが、私は推進派です。あくまで今回は、一旦はどちらの立場にも立場なりの正当性があるという観点から対等に比較するため、そして私自身、件に関しては「好き嫌い」とは別の観点から推進派の立場を取っているため、敢えてここで議論を切り上げています。少なくとも、私の周囲に存在する性犯罪被害者の数は、納豆がわりに箸を突き立てられたことのある人の数よりもずっと多いです。)

 では、「お気持ち上等」派の主張についても検討してみましょう。

  • マジョリティではないからといって、誰かが不当に不快な思いを強いられ続けるのは人権の侵害である
  • すべての「不快」を消し去ることは不可能かもしれないが、限りなくそれに近づけようと努力し続けることはできる
  • 故に、誰かひとりでも「不快だ」と感じる人間がいるのならば、それは社会への要求として声を上げる理由としては充分だ

 ここで重要なのは「不当に」という点で、たとえば私は厚底の靴を履いている時によく点字ブロックを踏んで転びかけますが、これを以て「点字ブロックを撤去しろ」と主張するわけにはいきません。なぜなら、道から点字ブロックを撤去することによって、私が道の好きなところを勝手気ままに歩いて足をくじくことよりも遥かに不便と苦痛を強いられる人々が存在するからです。

 さて、話を納豆に戻します。戻すなよ、と思われそうですが、戻します。

 この納豆という呪わしき食品は、なんと給食にも登場します。密閉された空間で30個近くの納豆が開封されるさまは、まさしく地獄絵図です。

 そして、更に恐ろしいことに、学校には時折「好き嫌いによる食べ残しは絶対に許さない」という教師が存在します。この強制がどれだけ無意味で有害かは別に記事が1本書けるレベルですので割愛しますが、こういう教師が存在し、かつブチギレて教師の顔面に納豆をぶちまけるという選択肢が取れなかった場合、私には「我慢して納豆を食べる(そして確実に吐き戻す)か、納豆が給食に出る日は学校を休む」かの二択しかありません。

 私は、自分が納豆を食べれば確実に吐き戻してしまうことを知っています。つまり、一時的であれ、健康に害があるレベルの支障をきたすわけです。

 言うまでもなく、小中学校は義務教育です。私の保護者は私を学校に通わせる義務があり、そして私には学校教育を受ける権利があります。つまり、「納豆を食べるか、学校を休むか」という二択は「健康に害が及びながらもそれを我慢するか、涙を呑んで学ぶ権利を手放すか」という二択なのです。

 そんな大げさな、と思うかもしれませんが、#KuTooの活動が言及しているのは、まさしくこれと同じ問題です。

 我々には職業選択の自由が存在します。にも関わらず、ある特定の職業は、女性にパンプスを履いて従事することを強要しています。 これはまさしく「健康を害するか、それが嫌なら人権を諦めろ」という二択に他なりません。

 また、統計をとったわけではありませんが、高いヒールの靴を履くことによって苦痛を感じることは、納豆を食べて胃が裏返るまで吐くことより遥かに普遍的な現象である、ということも付け加えておきたいと思います。

Q.旅館と給食じゃ、話が全然別じゃない?

 ここまでの記事を読みながら、こんなツッコミを入れていた方も多いでしょう。結論からいえば、仰る通り、確かに全然違います。でも、どちらも同時に、間違いなく日本で起こっていることです。

 基本的に、人は自分の想像力の及ばない世界については、エジソンの言うところの90%の努力と10%のひらめきでしか理解することができません。

 つまり、「お気持ち」論者にとってはフェミニズムとは「納豆が嫌いだから自分には特別に朝食用の部屋を別に用意しろ」と旅館に迫る行為だし、フェミニストにとっては、今の女性が晒されている現状は、「嘔吐しながら給食を食べるか、それとも学校を休むか」の二択である。そしてそれらは同時にこの日本で唱えられている主張である、ということです。

 そして、客観的に見てどうこうはともあれ、少なくとも両者の中では、共に自らの主張は「正論」なわけです。

納豆とはなにか

 要するに、片方が「お気持ちwwww」と揶揄して、もう片方が「お気持ち上等」と答えるとき、両者の世界観、あるいは論点は致命的にずれてしまっているのです。かたや旅館の朝ごはんに出る納豆の話で、かたや給食で無理矢理食べさせられる納豆の話をしているのですから。

 フェミニストにしろ「お気持ち」論者にしろ、世界をよりよくしたいと考える、それ自体は同じはずです。ですから、「お気持ち」だの「上等」だのと言う前に、まず我々のすべきことは「今ここで論じられている納豆とは何で、ロケーションはどこなのか」を徹底的にすり合わせることなのではないでしょうか。

 ……と言うと、双方から「もちろん最初はそうしたよ。でも奴ら、まるで聞く耳を持たないから多少乱暴に言うしかないんだよ」という反論が飛んできそうです。というか、実際そういう言論は両陣営から耳にします。だからこそ、敢えてこうお返ししましょう。

懇切丁寧な会話による相互理解を諦めたときが、人類の進歩の終わりだよ! バーカ!! 私もまずはひきわり納豆から始めるから、みんないっしょに頑張ろう!!!

 以上です。ありがとうございました。